PATHFINDER

エンダーのゲーム(新訳版)、無伴奏ソナタ(新訳版)と立て続けにカードの本が出た。といっても両方既読で旧訳版を何度も読み返していたのだけれど、新訳はどんなん?と興味を持つのもファンの性。ええ、すぐ買って読みましたよ。旧版は翻訳が悪い悪いという人が多いけど、私はあんまり気にならなかった。どっちかっていうと今の軽い口語訳より固い翻訳翻訳した文章の方が好きなんだよね。エンダーについては書こう書こうと思っていたらスケートの方が盛り上がっちゃったので機会を逸してしまった。ま、多分そのうち書くけど。

やっぱり映画効果は凄いね。本当はこのまま続けてエンダーシリーズの未邦訳分も出版して欲しかったんだが、いまいち映画自体がヒットしてないからちょっとそれは無理かもと落胆している。映画についてもいろいろ文句はあるのだが(グラッフ大佐とかねw)どでかいスクリーンでチェックしたかったので観に行くつもりだった。だけど地元の映画館の公開時期とソチ五輪がまるっきり被ってしまいそれも体力的に叶わず。あーあと油断していたらAmazonさんからお知らせがきた。

まさかの新刊だって???

オーソン・スコット・カード著 中原尚哉訳 【道を視る少年】

早速注文し今日は予定が空いたので上下巻一気読み。これで完結なのかと思ったらこれシリーズなんですか???どんだけシリーズ作ってほっとくねん!!!エンダーどうした?!(続き読みたきゃ原文読めって?そりゃ折衝な!)

…と普通はレビュー書くならあらすじからご紹介となるのだけれど。そういうの苦手なのですっとばす。世界の秘密はいつも少年少女が握っているのだよ、とそういうお話です。

上巻をしばらく読み進むと「オー」という街が出てくる。古い地名。そして現在の人の手では建てられない高い塔が出てくる。それは「オーの塔」と呼ばれ巡礼が後を立たない。今の人の技術力では到底建造できない塔、といういかにもSF的な仕掛けなのだけれど、「オー」という言葉の響きで浮かんできたのは彼女の「O」。

私はあの孔雀色の衣装を身につけて舞う小さな鳥をはじめてみた時に、ある本を思い出した。ブライアン W.オールディス作「地球の長い午後」これも名作の誉高いSF。訳者は伊藤典夫。原題の「Hothouse」を「地中の長い午後」と邦訳したのは素晴らしい。作者名より訳者名で買ってしまう数少ない翻訳家さんの一人。彼の訳した本でハズレはありません。

だもんでこの「PATHFINDER」を「道を視る少年」ってタイトルにしたのは若干不満が残る。多分この訳者さんの本を読むのは始めてだな…おっと話がちょっとずれた。「オーの塔」→「O」→「地球の長い午後」だっけ。

遠い未来。地球は自転を停止していて、太陽に当たる側面に夜はなく、影になってしまった半球に昼はない。生態系は変わり、巨大な樹木や植物が絡み合い高い層を成して天までどどこうとしている。巨大化した昆虫や食虫植物、不思議な生き物と争いながら原始的な生活を強いられるちっぽけな人類。

黄昏の人類、終わらない長い午後、成層圏まで届くかの如く茂る亜熱帯の植物群。環境に適応するために異形と化す昆虫などの生き物たち。奇妙な進化を遂げた植物の支配する緑の世界に舞う小さな鳥。幸せな過去の幻。私が鈴木明子の「O」から想起したのはこんな風景だった。

「フィギュアスケート」が何故奇妙な人たちに取り憑かれてしまったのか考えてみた。それは多分、「楽」だからだ。本を読むにしても映画を観るにしても舞台や音楽を鑑賞するにしても私達は「時間」と「(下地と成る)知識」を差し出さなければならない。例えば小学校に上がったばかりの児童が漢字だらけの全集や現在使われていない言葉で書かれた古典を読むには「知識」が必要だし、読む「時間」も必要だ。時にそれは苦痛と忍耐を伴う。そのため少なくない人たちは本を放り出してしまうだろう。

だが。3分弱あるいは4分、ヨナの言葉を借りれば「7分のドラマ」であるフィギュアスケートにはその必要がない。テレビの前で短時間座っていさえすれば我々にはその物語が手に入る。とても簡単だ。

私達は簡単に手に入れた物語を俎上にして自らの浅薄な知識を披露しながらあれこれ批評することができる。ジャンプやスピン、ステップなどの技術的なことについて。戦略について。競技上の駆け引きについて。或いは、メイクや衣装。或いは、音楽や映画、演劇やバレエを引き合いに出してあれこれ吟味することができる。これは素晴らしい、これはダメ、と。

短時間でなんの苦痛も努力もなく、そして金銭的な対価も必要なく、たった7分で手に入る物語。それをしたり顔で批評するのはさぞ楽しかろう。さぞ自尊心をくすぐられることだろう。その道の自称大家たちは、ネットの世界にゴマンといる。今日も楽しそうにああでもないこうでもないと気持よく御託を並べている。

おそらく私もその一人なのだろうけれども。

ごく一部の選ばれた人たちがその「7分」に、たったそれだけの短い時間に本当に物語を込める事ができる。誘虫灯に群がる蛾のように、選ばれし人がある種の人々を惹きつけるのは無理のないことなのかもしれない。だけど選ばれし彼の人たちから得られたインスピレーションを人が負のエネルギーに変えてしまうのは何故だろう?

ありがたいことに貯まっていくコメント欄を眺めながら、どういう気持でどういう理由でこういうことを書くのが考えてみた。

私がフィギュアスケートを観るのは多分、物語に込められた謎を解き明かしたいが為だ。シェヘラザードの物語を知りたくてバートン版千夜一夜物語を読んだ。仮面舞踏会の謎を知りたくて映画を観、戯曲を読んだ。泡飛沫のように浮かんでくる印象を確信に変える作業が面白いから私は惹かれる。だけどそれはごく個人的な思い込みに過ぎないことは知っているので、私の思い込みが現実と違っていても怒りはしない。

ごくごく幼いころ、世界は私の手の中にあるものと等価で、自分にできないことはなく、世界は自分のものだと思っていた。物語の主人公はいつも自分だと思っていた。いつの間にか私は大人になり自分ができることは望んでも殆どないと知った。

世界の秘密を解き明かすのは選ばれた少年少女で、私はその物語のおこぼれに預かっているだけだと。私は道を視ることも示すこともできず、あちら側にいる人が指すものを受け取ろうとしているだけ。嘆いたり嫉妬したこともあったけれど、それはごく若い頃のこと。

受け取って、楽しんで、感謝して、祈って。観客にできることはそう多くない。彼らは何をそんなに呪っているのだろう?世界は思い通りにならないからこそ、世界であるのに。

「私は真実を知っている」「お前は間違っている」と声高に叫ぶことに意味はあるのだろうか?負のエネルギーを費やし言葉を刃に叫んだところで私達に世界を変える力はない。

が。実のところその世界は変える必要などないのだ。正しい力と澄んだ言葉で自分の世界を作ればいい。恐らく彼らはそれを知らないのだろう。

 

 

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